しじまの書評

読書や読書体験の魅力を伝える

19.よるのばけもの

 

よるのばけもの (双葉文庫)

よるのばけもの (双葉文庫)

 

 

夜になると、僕は化け物になる。
寝ていても座っていても立っていても、それは深夜に突然やってくる。
ある日、化け物になった僕は、忘れ物をとりに夜の学校へと忍びこんだ。
誰もいない、と思っていた夜の教室。だけどそこには、
なぜかクラスメイトの矢野さつきがいて――。
280万部超の青春小説『君の膵臓をたべたい』の著者、
住野よるの三作目が待望の文庫化!!

 

 

 ↑はアマゾンの商品紹介から引用。

 

 

 突然化け物になり、主人公は夜の学校に忍び込む。

 

 

 この物語は、夜と昼の対比が基底にあります。主人公だっちーは昼は普通の生徒で普通に友達がいて、特別目立ったところはないけれどかといって何かカーストから外れているわけではないような。

 

 ただクラスで変わったことと言えば、女子が1人いじめられていること。それが矢野さん。

 

 クラスには絶対に彼女を無視しなければいけない合意があって、それに抵触すると、一瞬でほかのクラスメートからバッシングされる。

 

 

 夜、だっちーが忍び込んだ先にいたのはその矢野さんでした。

 

 正体がバレ、それから2人は夜の学校で会うようになります。

 

 

 昼は普通の中学生、夜は化け物。でも矢野さんから見ると、昼のクラスは地獄、夜のクラスは平気。という逆転が起こってます。

 

 なぜ化け物だったのかな、と考えながら読んでいたんですけど、矢野さんにとっては夜のだっちーの方が親しくでき、むしろ怖くない、という皮肉が効いていたんですね。

 

 

 化け物って何だろう。それは見た目の話かもしれないけど、もしかしたらそうとも限らないのかも。

 とても単純ですがそんな素朴な気付きを得ることができた気がします。

18.「それ自体が奇跡」小野寺史宜著

 

それ自体が奇跡 (講談社文庫)

それ自体が奇跡 (講談社文庫)

 

 

 

百貨店で働く貢と綾は結婚三年目。貢は婦人服売り場、綾は紳士服売り場で働いており、社内結婚だった。

貢はもともと百貨店のサッカー部に所属していたが、廃部に。しばらくサッカーとは無縁の日々を過ごしていたが、ある時社会人サッカーチームの強豪「カピターレ東京」からスカウトを受ける。
綾の反対にあいながらも、入団を決意する貢。
仕事よりも試合を優先しがちな貢に、上司も不満を募らせていく中、綾ともすれ違いはじめ――。

一方、綾は売り場に訪れた天野という男と映画や食事に行く関係に。貢よりも趣味が合う天野が徐々に気になり始める綾だが――。

結婚三年目にして初めて訪れる大きな危機を、2人は乗り越えられるのか!?

 

 上はアマゾンの商品紹介から引用。

 

 

 時間には均す効果があると思う。何を均すと言うと、人生の喜怒哀楽。

 

 どんなに喜ばしいことでも、時間が経つにつれて、その感情の起伏は過去のものとなり、同じ感動を心に再現することはできないだろう。

 

 多分、それは良いことでもあって、きっと死ぬほど悲しいこと(例えば失恋?)もいつか必ず乗り越えられる。というか失恋して世界が終わると思うことはあるけど、実際にそれをどうにか”均して”生きている人の方が絶対的に多いよね。

 

 

 ただ、均されているから安心というわけではなく、段々気持ちが下降してゆくこともある。

 結婚なんかは、まさにそうなのかもしれない。結婚するときに、将来別れるだろうな、なんて思う人間はいないといってもよいわけで。

 でもなんだかんだで続かないこともある。多分、大きな喜びがあって、死ぬまで傍にいる、なんて考える人ばかりでも、そう。だから、つまり均されるの、かも。

 

 

 だからそう、きっと何かを愛し続けるのは難しい。その対象が変わることもあれば、自分の気持ちが変わることもある。

 

 

 

 

 こうした微妙な心情の変化も淡々と書き切るから、より読み終わった後の感動もじわっと浸透する。

 小野寺氏の作品に出てくる登場人物は、良くも悪くもブレない。で、何かを知っている、という感じがする。多分、悟るとか諦めている、とか受け入れているとかでもなく。

 ただただ、知っている。そんな日常感を私は好きなのかもしれない。

17.「しあわせのねだん」角田光代著

 

しあわせのねだん(新潮文庫)

しあわせのねだん(新潮文庫)

 

 

最新の電子辞書にえいやと24000円を払ったら、品物と一緒にうたぐりぶかい自分がついてきた。アジアン定食8NZドルで寛容に触れた。人助けにと出した1000円には今も怒りが収まらない。生きていれば自然とお金は出ていって、使いすぎればサイフも気持ちもやせるけれど、その全部で私は何を買ったことになるんだろう。家計簿名人のカクタさんが、お金を通して人生の謎に迫る異色エッセイ。

 

 

 上はアマゾンの商品紹介より引用。

 

 久しぶりに頭をぶん殴られたような衝撃が来ました。1分前に読了して書いています。

 

 

 内容は、とどのつまりエッセイ。作家のエッセイ、それだけ。

 

 

 

 もし自分にフリートークする時間or紙面が与えられたとして何を書くだろう。

 

 いろんな切り口が考えられるが、お金というのはまた斬新だ。とにかく考えたことを下につらつら書こう。

 そう、これは私の備忘録。

 

 

 1)作家、ってどんな人種?

 

 ステレオタイプってどこにでもある。作家のそれは、おそらく「ずぼら」「昼夜逆転」「生活能力に乏しい」「どこかズレてる」みたいなのが多い気がする。ドラマでも似た感じのステレオタイプ連発してたからきっとそう。

 でもきっとそうでないところも多い。文明は驚くほど自由に生活を組み立てることを可能にしたけれど。

 

 

 例えば、SNSを開けば、旬なネタ(果たしてSNSでの旬はどこまでリアルと繋がっているのだろう。いやそもそも何をもってリアルと言うのだろう、新聞? マスメディア? わかんない)に対してお気持ち表明意見を述べている作家と名乗る人がいて、意外と陳腐。てかそこだけ見たら「インフルエンサー」と称される胡散臭い人となんら変わりないしね。

 書店行けばその人の本がずらりと並んでいたり。

 

 別のエッセイ(江國香織氏)ではフワフワして現実感の無い生活送っていながら観察眼は鋭いし。

 このエッセイでは、氏の書く小説の文体からはちょっと想像できないような生活感がにじみ出ているし。

 

 意外なところでかき乱される。

 

 

 2)所詮作家も職業

 

 別に批判とかではまったくない。

 

 読み手として、常に真剣に小説の世界に入り込もうとして、いわば自分の全身全霊で読むことが多かったけど、書き手からすれば、ライフワークなんだからそこまで熱の入らない作品があっても当然、というか商業的に生産される小説があって当たり前。

 うーん、読み手はライフワークとして小説を読んでいるわけではないので、読書はあくまで非日常。

 でも書き手としては、同じ作品に何か月も時間かけたりしてくれば、当然日常の一部なわけで。

 

 であれば、長い期間かけて込めた熱量を、一瞬で受け取ろうとするこの図式では、当然瞬間のインパクトが違い過ぎる。

 

 よくわからん。後世の私、頑張って理解してくれ。

 

 

 3)コンテンツ力

 

 ある人いるよね。やたらコンテンツが充実していて、話す話題に事欠かない人。

 

 コンテンツ力なければエッセイなんて書けないよな、と思ったのと、最近コンテンツ力ある知人と話していろいろ思ったこと。

 

 多分、コンテンツ力を形成するのは3つ。

 

 まず、そもそもの経験の絶対量。毎日家に籠っている人と、毎日外で刺激を吸収する人、当然後者の方がコンテンツある。

 

 そして、観察眼、切り口。どんなに豊かに生きていても、それを一次的に解釈する自分が刺激をしっかりコンテンツ性高く観察できるか。要は持ち腐れみたいなのもあるよね。

 

 最後が、社会性。そもそもそのコンテンツって、その場でウケるの? ってこと。酒でやらかした失敗談は、大学生とかの間では共有できそうだけど、主婦のグループでそれ話してもウケる確率低そう、ってこと。

 

 

 以上。

 

 

 エッセイの中身は共感できるところ多く、非常に面白い。

 

 役回りの話とか、まさにそうで。多分子どものころ「〇〇な親には絶対ならない」とか自分の親見て考えることもあったけど、結局持ち回りなのかなあ。

 

 あと、怒っているときに、自分よりさらにぶちぎれている人見るとスッと怒りが収まるとかね。

16.「オーダーメイド殺人クラブ」辻村深月著

 

オーダーメイド殺人クラブ (集英社文庫)

オーダーメイド殺人クラブ (集英社文庫)

 

 

クラスで上位の「リア充」女子グループに属する中学二年生の小林アン。死や猟奇的なものに惹かれる心を隠し、些細なことで激変する友達との関係に悩んでいる。家や教室に苛立ちと絶望を感じるアンは、冴えない「昆虫系」だが自分と似た美意識を感じる同級生の男子・徳川に、自分自身の殺害を依頼する。二人が「作る」事件の結末は――。少年少女の痛切な心理を直木賞作家が丹念に描く、青春小説。

 

 

 上はアマゾンの商品紹介から引用。

 

 

 あの頃の感覚は特異なだけに一生忘れることはないのかもしれません。

 

 どんなに馬鹿げて見えても、どんなに下らなく見えても、当事者にしかわからない世界というのは確かに存在するし、世界が閉じている子どもにとって、切実なことはたくさんあります。

 

 中二病のような2人も、それぞれが切実でしょうがない。

 

 そんな心理描写が丁寧でこっちまで少し恥ずかしくなるような一冊でした。

 

 

 

 

 どれだけ死ぬ覚悟を決めてようと、明日という嫌な一日が来ることに絶望してしまうことは、よくあることなのではないでしょうか。

 

 今日、明日と戦争です。若く幼い子どもにとって、毎日は戦争の連続で、きっと生き残ることができなかった人もたくさんいる。(ここら辺は桜庭一樹の作品にも通じる気がする)

 

 

 行き詰ったときは遠くを見よう。手元ばかり見てては疲れてしまう。明日の自分を想像するのではなく、10年20年後の自分を想像してみよう。きっと地球はいつまでも回っているし、この津波のように押し寄せてくる戦争もいつかはさざ波のように、穏やかに振り返ることができるのだから。

15.「何様」朝井リョウ著

 

何様(新潮文庫)

何様(新潮文庫)

 

 

就活、自意識、邪悪な恋愛……現代を衝く短編集

世界は、語られた言葉と、語られなかった言葉でできている。そのシンプルな真実を、カギカッコ(語られた言葉)と地の文(語られなかった言葉)でできている小説という表現手段を駆使して、朝井リョウは読者の胸に突きつけてきた。その手法=文体=メッセージは、デビュー作『桐島、部活やめるってよ』で萌芽し、大学生の就職活動とSNSによるコミュニケーションを題材にした『何者』で大きな成果となって現れた。朝井は二三歳で、戦後最年少直木賞受賞作家となった。

 

実写映画化作品が間もなく公開される同作の、「アナザーストーリー」全六編を収めた短編集が『何様』だ。主人公の親友である光太郎が、瑞月をフってまで追い掛けていた女の子は誰だ? 付き合ってすぐに同棲を始めた、理香と隆良のなれそめは? 第一話と第二話は、本編で触れられながらも語られなかった謎を解き明かす、まっとうな「前日譚」だ。と同時に、恋愛の秘密にアプローチする「恋愛小説」でもある。恋愛とは、語られなかった気持ちが語られる、告白という装置によって発動する。第一話ではその手続きが、ミステリーの衣をまといつつ正当に行われているのだが、第二話では裏バージョンが描かれる。第二話の主人公は、自分が抱いている気持ちを他人に語れない、というコンプレックスの持ち主だ。そんな人物だからこそ可能となった告白が、ラストで発動する。こんな邪悪な恋愛小説、朝井リョウにしか書けないだろう。

 

第三話以降は、本編の「後日譚」となる時間軸も登場し始める。本編との関連性も薄まり物語の自由度は高まっているが、言葉に対する感性は健在だ。元カレの一言から、物事をすべて「逆算」する癖がついたOL。恋人と語り合うことで、自分の意見は「絶対」ではないと気づく高校生。「むしゃくしゃ」という言葉に、あえて身を委ねようとする男女……。表題作の最終第六話は、入社一年目で人事部に異動となった男の物語だ。まだ「何者」でもない自分が、人を選び優劣をジャッジするだなんて「何様」か? その問いが自家中毒を起こしかけた先で、語られなかった言葉が、語られる。その瞬間、これまで見えていた世界が、まるで違ったものとして立ち現れる。

 

語られた言葉の中に、すべてがあるわけでは決してない。だが、語られなかった言葉が、一〇〇%の本音というわけでもない。語られた言葉と語られなかった言葉の間で揺らいでいるものにこそ、真実が宿る。『何者』で示された揺らぎは、『何様』でより大きくより複雑に、心地よく揺らいだ。

評者:吉田 大助

 

 

 上はアマゾンのkindle版商品紹介より引用。

 

 

 誰もが自分の人生の当事者です。ですが逆に言えば、誰も他人の人生の当事者にはなれないです。当たり前のようですが、忘れられることも多いです。

 

 

 短い時間で自分のことを最大限よく見せようとする学生、短い時間の面接内容だけで相手の人生を測ろうとする人事。どちらも主人公からすると、誠実じゃないです。

 

 他人の人生なんて結局他人ごとでしか推し量ることしかできないのに、わかったような顔して面接を進めるという態度のどこが誠実なのか、主人公は苦しみます。

 就活というと学生側の苦悩に焦点が当たることが多いですが、この小説では採用側の苦悩に焦点が当たっています。

 

 

 

 でも、多分それは構造上避けようがないことで、実際に膨大な数の応募者に長い時間をかけようとすると、現状の企業の体制だと破綻しますし、この慣行でも企業は十分回っているので、問題ではないのでしょう。

 

 わからないなりに真剣に聞くことが誠実の一歩で、それも誠実の範疇にいれる、という考えは上手いというか処世術だな、と感じます。

 

 

 ただ、そういった処世術に長ければ長けるほど現状を追認する方便が上手くなるだけで、課題が解決できるわけではないということも頭の片隅に入れておくべきなのかな、とも思います。

 

 

 ポジショントークとか都合の良い(誰かにとっては都合の悪い)構造に乗っかることってとても健康なんですよね、逆に自分にとって都合の良いけど正義や公正に反するのではないか、と悩むことは不健康です、だってそれに乗っかってれば安泰だから。

 

 ただ、そうやって悩んで悩み続けることはきっと健全です。ただ都合の良い方に流されるのは精神衛生上は優れているかもしれないですが、不健全だと思います。

 

 「何様」の武田や松井は不健康だけど健全、君島は健康だけど不健全。敢えて区分するならばこんな感じでしょうか。

 

 

 多分人間はそのはざまで揺れながら生きていくのかな...

14.「いくつもの週末」江國香織著

 

いくつもの週末 (集英社文庫)

いくつもの週末 (集英社文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 発売日: 2001/05/18
  • メディア: 文庫
 

 

 

いくつもの週末にデートを重ね、サラリーマンの彼と結婚した著者。日々の想い、生活の風景、男と女のリアリズム。恋愛小説の名手が告白する、甘く、ときにはビターな「結婚生活」。(解説・井上荒野)

 

 

 

 

 引用はアマゾンの商品紹介から。

 

 

 

 

 結婚生活をここまでドラマチックに描けるでしょうか。

 

 結婚はすなわち停滞、のような扱いで題材となることが多いですよね。現実にもそのようなイメージがあるからそうなっていると思います。

 

 ドラマチックが生まれるのは結婚そのもの、離婚、などなどですが、それがないのに、江國さんの描写する結婚生活は波乱万丈です。

 

 しかも、最初は3者視点で読んでいたのですが、どうやらこれは江國さん自身の話です。

 

 

 なんてことのない日常の1シーンをいかに切り取るか。そんな技量のすごさがうかがえます。

 

 あと個人的に好みなのが、江國さんの文章には優しさが滲んでいるような気がします。恋愛とそれに振り回される人間が描かれることが多いのですが、それを厳しい目で見つめるのではなく、振り回されることをよし、として見てくれている、そんな気がします。

 

 自分も結婚したらドタバタするのかな。。。

13.「灰の劇場」恩田陸著

 

灰の劇場

灰の劇場

 

 

大学の同級生の二人の女性は一緒に住み、そして、一緒に飛び降りた――。
いま、「三面記事」から「物語」がはじまる。
きっかけは「私」が小説家としてデビューした頃に遡る。それは、ごくごく短い記事だった。
一緒に暮らしていた女性二人が橋から飛び降りて、自殺をしたというものである。
様々な「なぜ」が「私」の脳裏を駆け巡る。しかし当時、「私」は記事を切り取っておかなかった。そしてその記事は、「私」の中でずっと「棘」として刺さったままとなっていた。
ある日「私」は、担当編集者から一枚のプリントを渡される。「見つかりました」――彼が差し出してきたのは、一九九四年九月二十五日(朝刊)の新聞記事のコピー。ずっと記憶の中にだけあった記事……記号の二人。
次第に「私の日常」は、二人の女性の「人生」に侵食されていく。
新たなる恩田陸ワールド、開幕!

 

 

 上記はアマゾンの商品紹介から引用。

 

 

 

 

 

※ネタバレを含むかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 虚構と現実は紙一重です。この本では、「この本を執筆する著者」と「自殺した2人」の話が交互に出てきて、最後は邂逅します。

 

 冷静に考えると、今読んでいる本を執筆する姿を書くって不可能ですよね。だってそうなると、書く姿を書く、その姿をさらに書く、ってなって無限に続いてしまいます。

 

 

 

 なので、まあ「この本を執筆する著者」は明らかに作られた虚構であって、本当に執筆する過程を描写したものではないのですが、一瞬それを忘れかける瞬間があります。

 

 そんな矛盾を内包していることを考える始めると頭がおかしくなりそうなのですが、これも恩田さんの狙いなような気もします。理論上は可能ですよね、「この本を執筆する自分をさらに執筆する」って。その無限になってしまうので最後は気狂いにならざるを得ないわけですが。

 

 

 で、↑がこの本の面白い点の1つで、もう1つが、なぜ女性2人は自殺としか思えない方法で死を選んだのか、というところ。

 

 これは、「この本の内容を取材中の著者自身を描く」パートで徐々に明らかになります(最後まで明らかになるとは言っていない)

 

 

 読後の正直な感想は、「日常と絶望は表裏一体」ということです。

 

 人間の特性上、常に刺激に満ちた生活を続けていると、刺激に反応することに体力(脳や身体のリソースとも置き換えられる)を奪われて疲弊する、or、刺激を受けることに慣れて刺激を刺激と思わなくなる、という結果に行き着きます(筆者調べ)。

 

 なので、人間は刺激を上手く処理して、脳のリソースを奪われ過ぎないようにします。

 

 例えば、毎日の通学路から見える風景をいきなり紙に書け、って言われたらほとんどの人は再現できません。だってそれを一々覚えていたら脳のリソースを食い過ぎてしまうからです。

 

 

 

 回りくどいですが、つまり、人生は退屈な(=刺激が無害化された)瞬間、すなわち日常の連続です。

 

 仕事は毎週決まった時間にあるし(ほとんどの会社員や自営業の人でも)、食事もそうだし、お手洗いのデザインもそうだし、つまり、日常は回帰的です。

 

 

 

 そして、これは人間の悪い特性でもあると思うのですが、人間は退屈に際して絶望します。

 

 だから戦争(あるいは闘争、肉体的ではなく社会的なものも含めて)はなくならないんですね、平和になってしまったら回帰的な日常が繰り返されるだけで退屈ですから。

 

 

 

 作中の女性も、人生に退屈しています。というより、将来も同じような生活を繰り返し、緩やかに朽ち果てることを察してしまいます。

 

 

 そうなったときどうするか、は人によって違います。

 

 ある人は脱サラして海外に刺激を求めるかもしれません。

 

 ある人は転職して新しい環境(=刺激)を求めるかもしれません。

 

 

 ある人は絶望の果て、自死を選ぶかもしれません。

 

 

 

 多分、そういうことをこの本は表現したんじゃないかな、と思います。

 

 

 

 恩田陸と言えば、結末を読者に委ねることが多いですが、ミステリーに対して、それを解決するのは必ずしも作者である必要はない、という当たり前を思い出させてくれるので私は肯定派だったりします。

 

 確かにストレスになるときもありますけどね。