受験

今週のお題「受験」

 

なんでなんだろう。なんか受験について書きたくなってしまった。

では書いていこう。

 

僕の最初の受験は、中学受験。

結果から言うと、2勝2敗で、第一第二志望どちらも落ちて、第三志望の私立に行きました。

第三志望って聞くと、かなり落ちた印象あるけど、僕は落ちたことに全く悔しいとかいう感情を抱いていない。なぜなら、僕が行くことになった私立(男子校)で素敵な友人に会えたから。

 

その友人とは、僕が海外に行ってからも連絡を取り、一時帰国の際には必ず遊びに行くような、とてもいい関係です。多分一生の友人になるでしょう。

 

何が言いたいかというと、小学生諸君。落ちても心配するな。受験に落ちたからって世界が終わるわけじゃないし、大切なのは行くことになった中学で何をするか、だから。

 

僕みたいに、素晴らしい友人を作ることだって全然可能だし、もっと素敵なことが待ち受けているかもしれない。

受験は、テスト一つで全てが決まってしまう、少し残酷なシステムだけど、めげずに頑張って。

 

ちなみに僕は、6年生の12月まで、塾のない日は必ず学校の友達と遊んでいました。当時周囲がどんな態度で受験に臨んでいたかは知らないけれど、そんなもんです。

というか小学生に、毎日勉強させるのって無理がある気がする...

あと、親愛なる僕の友人は、受験日当日に電車内でiPadで遊んでたと言ってたし、別の友達は、塾に行きはじめたのは6年生の夏だとか言ってたので、現実はそんなもん。

驚くほど短い勉強時間で、合格をかっさらっていく人もいるんです。

 

厳しいこと言うけど、努力しても必ず報われるなんてことはないです。

だって、テスト一つで決まるんだから、運が絡むでしょう。運の要素を減らすのには、究極的には、どんな問題でも解けるような状態にもっていくことですかね。

受験生にできるのは、自分は合格できると信じて、頑張ることですね。あと少しです。頑張ってください。

 

僕は受験3日前くらいから、ずっと星新一藤沢周平を読んでました。思えばかなり運が見方してくれたのかな。

しじま読書録② 「ヒルビリー・エレジー」 (ネタバレ有り)

 どうもこんにちは。しじまです。

 

今回は、「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」(光文社)J.D.ヴァンス (著), 関根 光宏 ・山田 文 (翻訳)

を、読み終えたので、その感想等を書こうと思っています。

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

 

 初読の感想を一言。頭が洗われる気分でした。

この本は、低所得の白人労働者の実態を筆者の実体験を交えながら、解明していくという内容です。

 

これを読む前の、僕の前知識を少し紹介します。その方が僕の衝撃がより伝わりやすいと思うので。

アメリカで、貧困とか差別を語るとき、僕は、黒人や南アメリカからラテン系のいわゆる「マイノリティ」な人々のことしか頭に思い浮かびませんでした。

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白人の中にも、エリート層と貧しい労働者層があるというのは知っていたのですが、(大統領選挙の時に色々と聞きかじった)それでも、貧困度という点では、低い方から白人エリート層、白人労働者層、マイノリティ、みたいなイメージでした。

ところが、著者が冒頭で述べたように、

さまざまな世論調査の結果、アメリカで最も厭世的傾向にある社会集団は、白人労働者階級だ

そうです。

今アメリカでは、白人労働者階級の貧困が問題となっているのです。

 

それはさておき、内容の方に。

 

 

この本で語られている、白人労働者階級の生活、というのはなかなかに悲惨です(僕の家庭は比較的裕福な方で、それで補正がかかっているとは思います)

筆者の例で言えば、彼には名前も知らない兄弟や姉妹が沢山います。これは異父兄弟姉妹という意味で、母親が違う男と次々に同棲したり別れたり、ということを繰り返しているから起こった事態です。そこには家庭内暴力もありました。

このことだけで、既に相当不安定な家庭状況だと言えるでしょう。

さらに、彼の母親は薬物中毒者です。これも結構深刻で、精神がかなり不安定だったそうです。

 

そんな彼の少年、青年時代、唯一の支えとなってくれたのが、母方の祖父母でした。彼の祖父母は規律的であり、誠実であり、勤勉だったため、比較的幸せな家庭を築いていたらしい。そして祖父母という居場所が、彼にとって安心できる場所であったがために、彼は自分の今がある、と考えているようです。

 

この描写から、僕はinter-generational cycle of violence(訳すとしたら、世代間の暴力連鎖かな)という理論を思い出しました。

この理論によると、親に虐待されていた子供は、大人になって彼/彼女が親になったときに、子供のころに虐待されていなかった人と比べて、自身の子供を虐待しやすい傾向にあるのです。

つまり、「虐待は親から子供へ受け継がれる」と言えるのです。

最初、僕はあれ?と思いました。

なぜなら、虐待された経験があれば、「自分の子供は絶対に同じ目に遭わせないようにしよう」と思うのが普通であり、むしろ自分の子供を虐待しなくなるのではないか、と思ったからです。

 

しかし、少し考えれば簡単なこと。

親に虐待されていた子供は、その「子育て」の方法しか知らないわけで、無意識の内に自身の子供に同じように接してしまうのでしょう。

 

話を戻します。

ヒルビリー・エレジーでは、後半の方に筆者のキャンパスライフが描かれています。

そこで彼は、とても素敵なガールフレンドを作るのですが、彼女にひどい言葉をかけてしまいます。そしてそれを彼はこう説明します。

そのとき私は、数世代にもわたって家族を苦しめてきた、愛する人を傷つけてしまう気質を、自分も受け継いでいることに気づいた。

 世代間の暴力連鎖と言っていることは、ほぼ同じだと思います。

つまり、私たちは、親のしつけを無意識に真似ている部分があるということです。(もちろん、努力を重ねれば、そこから抜け出すことはできると思います)

 

 

はい。

ここで終わっても良かったのですが(だってこれが一番強く印象に残っていた)トランプ大統領と関連させることが、巷で行われているらしいので、最後に僕も関連付けてみます。

 

筆者によると

あまりにも多くの若者が、重労働から逃れようとしている。よい仕事であっても、長続きしない。(中略)さらに問題なのは、そんな状況に自分を追い込みながらも、周囲の人がなんとかしてくれるべきだと考えている点だ。つまり、自分の人生なのに、自分ではどうにもならないと考え、なんでも他人のせいにしようとする。

 彼は、同じ白人労働者階級に対して、意外に批判的です。

さてトランプ氏ですが、ポピュリズムと揶揄されたように、政治を”わかりやすく”話すことで有名ですね。

例えば、「メキシコからの人々は、犯罪者でレイプ犯」とかですね。

 

このような「気持ちがよく、感情的な」発言に同調する民衆というのは、まさにこの本で述べられている白人労働者階級なのではないのでしょうか。

他人のせいにしようとするとき、これほど頼もしく聞こえる発言もなかなかないですね(笑)

彼の政治について話すとなると、ものすごく長くなりそうなので置いときましょう。

要は、既存の政治家とは、目線が違うのでしょう。

「きちんと政治の話をし、信頼を得る」といったスタイルではなく、「より感情に訴え、差別的な発言でも気持ちよくする」スタイルですね。

誰かのせいにする、と筆者が述べていたように、トランプ氏のMake America Great Againも同じ考えですね。メキシコ人を追い出せ。都合の悪い移民はいらない、などなど。

 

それに、とても将来に悲観的なこの階層が、既存の政治家を信用しろというのが最早無理のある話ですね。

彼の発言が正しいか間違っているかはともかく、彼の発言が、白人労働者階級にとても魅力的に映る、ということは理解できたと思います。

そして、そのことが、この本をベストセラーにしているのだとも思います。

(正直、僕はトランプ氏関連の話より、筆者の家庭状況であったり、彼個人の体験がとても衝撃的かつ面白く思いました。白人労働者階級というおそらく一生会うこともないような集団の価値観の一端を垣間見ることができて、良かったです)

 

ではでは。

そういえば、もうそろそろ受験ですね。僕も国立の帰国子女受験が控えてます(笑)

こんなブログ書いてる場合じゃないorz

しじま読書録① 「教団X」(ネタバレ有り)

どうもこんにちは。投稿者のしじまです。

 

新年初、読書の忘備録みたいなものを書いていきます。

要は、自分の感想を文字に書き起こそう、という取り組みです。

2018年最初に、家で読んでいた本は中村文則氏の「教団X」です。

 

教団X (集英社文庫)

教団X (集英社文庫)

 

 

 

新年とあり、ふと思い立って、読み直しました。

僕は、日本に一時帰国して、書店に寄ったときに「面白そう」と思って買ったのですが、評価が割れているそうですね。

この話は後程。

 

 

 まずは軽く感想を。

一言の中に、自分の感想を詰め込むと、本当に伝えたい意味が失われてしまうかもしれないので、一言の感想は嫌なのですが、あえて言いましょう。

考えさせらる。これに尽きます。

 

この本は、「物語」というよりも、作家の「思想」とでも言うのでしょうか。

僕個人としては、とても気に入りました。内容に賛成/反対はともかく、読み応えということで考えれば、星5ですね。

そして、これは中村氏の本に比較的共通して入っているテーマなのですが、「闇」のような絶望感の中に、一筋の「光明」という希望を見出す、という構造。これが個人的に大好き。

さて、この本は、主に宇宙論脳科学、政治談、戦争を絡めた生と死、善と悪、罪などの、非常に重いテーマを扱っています。

 

と、前書きはここまで。まずはあらすじから書いていきます。

 

 

  • あらすじ

主人公である、楢崎という男性。彼と、恋人のような関係にいた女性、立花涼子。

ある日、楢崎の元から立花が失踪。行方を調べるために、探偵事務所に勤める助手の小林に彼女の行方を調べるように依頼し、その結果を、小林が楢崎に渡すところから話が始まる。

調査の結果、立花は、宗教団体のようなものと関わりがあるらしい。ということで楢崎がその団体の施設を訪れる。そこの教祖が松尾。そして、松尾の団体と対立関係にあるのが、教団X。そこの教祖が沢渡。

といった感じで、楢崎が立花を探すうちに、抗争に巻き込まれていく、という内容です。

 

........だめですね。これでは確実に内容を誤解してしまう。これでは、まるでこの本が「小説」であり、「ミステリ」のように緊張感あふれる物語を展開させてくれるであろうかのように錯覚をさせてしまいますね。

まあ、僕も最初はそう思って読んでいました。中村氏による、サスペンスなのか、と。

 

  • 感想

ですが、実際のところは違います。もちろん、サスペンスやミステリ要素もあります。しかし、主題はやはり先程挙げたテーマと、それに関する筆者の思想と言えるでしょう。

 

序盤に来るのは、松尾が定期的に開く会の録画です。ここで、量子論脳科学宇宙論などが出てきます。

 

素直に、深いなあと思いました。作者の感性に深く打たれた、とでも言うのでしょうか。残念ですが、それ以上の感想が出てきません。

 

  •  いろいろと考えさせられた部分

ここからは、印象に残った部分を引用します。そしてその部分に関して自分が考えたことを書いていこうと思います。

 

つまり意識「私」というものは、決して主体ではなく、脳の活動を反映する「鏡」のような存在である可能性があるのです。「私」達が「閃いた!」と感じた時、その0・何秒か前に、実は脳が「閃いて」いるのです。(中略)これが意識「私」の正体です。まるで「私」達が、「自分」という座席に座ったこの人生の観客であるかのように。

 ある脳科学者の実験によると、意識とは主体的なものではなく、脳が既に決めた物事を反芻しているようなものだそうです。

 

要するに、私たちは、自由意志を信じ、「私」という意識が現実の私を支配していると思っているが、実際のところ脳が全てを先に決めているんだよ、という一見すると怖い話。これを、作中では仏陀と絡めます。

 

いやー、衝撃でした。僕は、ベンジャミン・リベット氏の研究する知らなかったため、思わず読み返すほど、驚きましたね。

まあこれは、単純に事実を知って、驚いたという程度の話。

 

次。松尾の過去の話。

彼は、軍人として太平洋戦争に参加した経緯があり、それを定期的に開く会の中で話していました。

この戦争(太平洋戦争)を支えてきたのは、気持ちよさ、だった。お国のために死地へ向かう。軍人の敬礼。死して敵を討つ。犠牲の美。これらのナショナリズムには、気持ちよさがある。(中略)人間は、自らの優位性を信じたくなる生物です。さらに人間は善意を前提とする時、もっとも凶暴になれる。善意・正義を隠れ蓑に、自らの凶暴性を開放するのです。

その通りだな、と。

ジョージ・オーウェル氏の有名な本、「一九八四年」にこういう独白があります。

内容は、最良の本とは、自分が既に知っていることを、わかりやすい形で改めて提示してくれる本のことだ、とこんな感じです。

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

まさにその通りで、松尾の話は、僕が既に感じていることを、改めて提示してくれました。

そう、人間っていう生き物は、「正しい」ことに敏感なんですね。何事も、それが社会的に正しいのであれば、怖いものなし、といった風でその価値観を押し付けてきます。「正しい」ことに飲まれることが、みな大好きなのです。そしてそれはもちろん、その「正しい」という感覚さえあれば、何をしても許されると思っているからです。

 

正しさに酔うことは、気持ちがいいですが、反面とても危険です。自分の善意や、自分の正義を押し付けて、自己満足に浸るようなことは、自覚しにくいのですが、気を付けてみるべきですね。

 

はい次。

これは、公安の五〇代の男が、その部下に話しかけているところからの引用。

「内面を揺さぶられそうになった時、人間は大きく二種類に分けられる。一つは、内面を揺さぶられ、その揺れを味わうことができ、それを元に自分を少し改変させたり、その揺れを楽しむことができる人間。もう一つは、それをシャットダウンし、もしその対象が映画や小説であるなら、その揺さぶられた事柄に反論するのではなく、物語や何やらにケチをつけ、その対象を駄作として切り捨て、深く考えることを避け自己を守る人間。」

 僕は、何事も二つに分けきる、という二元論的な考えはあまり好まないのですが、それはさておき。

わが身にしみますね(笑)

反対意見にどこまで真摯に向き合うことができるか。これは、意識していても中々できることではありませんね。僕も、自分は前者である、と言いたい人間なのですが、果たして本当にそうなのか、と言われれば難しい。

ここで、「揺れを楽しむ」とありますが、本当にその位の感覚がふさわしいのかもしれませんね。思わぬ反対意見に出くわし、悩む自分を、客観的に見つめて笑ってみる。これくらいできなくては、客観的になるとは言えないのかもしれません。

さて、五〇代の男の話は続きます。

「だから君も、正義の顔をするのはやめた方がいい。組織に忠実に行為をする人間も、組織に疑問を持ちながら、結局同じ行為をする人間も結果的に同じだからだ。(中略)二つの行為は、行われた対象からすれば全く同じなんだよ」

 これは主に、自分が悪い、と思っていながらある行為を行っていることへの投げかけでしょうか。要は、お前が何を考えていようが、その行為はお前によって行われているわけで、俺にとってはお前の考えなんて知ったこっちゃない、みたいな意味合いでしょう。

本当に悪いと思ってるなら、するな。してしまっているのなら、自分の行為を正当化するんじゃなくて、その重さを受け入れろ。

 

これもよく見かけますね(笑)

学校でも、先生が「悪いと思ってるけど、この課題をすることで将来絶対役に立つ」なんて言うと、僕は心の中で半ギレしてます(笑)

勝手に自分を正当化されても困るんですよね。だって結局その課題はやらなければいけないんでしょう? だったら、御託を並べないで、「これが課題だ。やれ」でいいんですよ。大抵の生徒は、やらなければいけないこと位、わかっているんですよ。思ってもないくせに、「私はあなたのためを思って課題を出すの」なんて面をされると、不愉快ですね(笑)

 

愚痴っぽくなってしまったので、次。

最後の方になりますが、沢渡は昔、医者でした。そこで、マレーシアのとある辺境の村に立ち寄って、少女を結核から救います。そこでは医療が発達しておらず、沢渡が訪れてようやく、助かることができたのです。

しかし、そこで沢渡は、治療をした少女を凌辱します。単純な興味からです。命を救ってくれた「恩人」が突如「冷酷無比」な男に変わったらどういう対応をするのだろうか、という疑問。それの答えを知りたかったのでしょうか。

ところが、その少女は、沢渡を受け入れます。抵抗なしで、です。

それを聞いた沢渡は驚きます。当然でしょう。命を救ってやるから、身体をよこせ。これは現代社会からすれば、明らかに不道徳であり、「悪い」ことです。それに対して、その少女はこう言います。

「ここは世界から見捨てられた村。誰も来ようとしなかった。あなた以外は。あなたが来なければ、私は結核で既に死んでいた。私にとっては、私の村に来なかった人々は無に等しい。私に何もしてくれなかった人間達の同情などいらない。そんな人間達の道徳など聞く必要はない」

 これを受けた、沢渡はこう考えます。

そもそも世界の悲劇を知っていても何もしない人間達が私の道徳を批判することの滑稽さを覚えた。人間とは自分を善人と思いたい種族であり、世界とは、無関心の悪によって成り立つ。

 マザーテレサの言葉にも、「愛の反対は無関心」というのがありましたね。

 

確かに滑稽なんですよ。僕たちがいくら、「レイプはいけない」って叫ぼうとも、それが誰かをレイプの被害に遭うことから救うわけではありません。

確かに、いくら人の命を救う医者だからと言って、患者を凌辱することは、いけないことなのでしょう。ですが、正義でを唱えることで人が救えるとは限りません。

少女にしてみれば、何もしない無関心を貫く僕らと、実際に命を救ってくれた沢渡。どちらの道徳が大切かなんてことは、火を見るよりも明らかです。

善悪というテーマで言えば、悪とは無関心から生まれる。そんな主張が込められている気がします。

 

 ここまで重くて、暗いテーマを取り上げてきましたね。正直、僕もこれらのことを考えると、どうしようもないような疲労感に襲われます。

しかし、中村氏のスゴイところ(僕が好きなところ)は、こうした昏い絶望の中にも、最後に希望の光を見せてくれることです。

例えば、少し歪んだ恋人関係にあった高原(教団Xのナンバー2)と立花ですが、立花がいいこと言ってくれるんです。

人生っていうのは、比べるものじゃないって。(中略)他の人と比べることなんて、どうだっていいの。大事なのは、目の前に出現したその自分の人生を歩くってことなの。他人と比べるなんて無意味。どんな人生も価値の上では等しい。(中略)どんな人生だって、それがもし満足のいくものでなかったとしても、それを最後まで生き切ったあなたは格好いいじゃない。平穏な人生より、それが困難であればあるほど、何とか改善しようともがいたりしながら、生き切った時に格好いいじゃない。

これは、僕にスゴイ衝撃を与えてくれました。理屈ではなんとなくわかってはいても、自分に自信が持てない、なんてことはあると思います。そんなときに、こういう言葉を見ると、本当に救われる思いがしますね。

 

そして、高原が公安に撃たれて、意識を失う寸前。

「......おれのつみは、なんだったのかな」(中略)「罪なんて」高原を腕で抱き、立花は泣きながら言う。「あなたに罪なんてない。そんなものがあるはずがない。ただあなたは小さい頃に傷ついて、それから不器用に生きただけ。罪なんてない」

 こういう風に自分を振り返ることができたらいいな、と思います。理屈ではないのですが、「不器用に生きただけ」というのは、大きな救いになりうるのではないでしょうか。

 

  •  最後に

既に長ったらしくなってしまっているのですが、僕の気になった部分を短く紹介したいと思います。

あとがきにも書かれているのですが、作中に「すべての多様性を愛する」とあります。

これが、非常に難しい(笑)

僕が住んでいる北米では、多様性がいたるところに見られます。人種の多様性というのがいちばん大きいですかね。世界中いろんなところから、人が集まるため、多様性を嫌でも意識させられるわけです。

が、そのすべてを愛する、というのは難しい。どうしても文化的な衝突があったりして、全ての人を好きになることが、僕にはできないです。

 

そこで、僕は最近こう考えています。

愛することはできなくても、認めること位ならできるかな、と。

多様性があることを認め、それを、せめて否定はしない、というスタンスが精一杯ですね。人には、多様性があり、みな一人一人違うんだから、それを尊重しよう。

これが僕の限界です、恥ずかしいことながら。

 

 おっと。うっかり評価が割れてることに言及するのを忘れるところでした(笑)

僕はアマゾンでの評価を見てきました。

すると、星1が圧倒的多く、38%を占めていて、あとはみな横並びといった感じです。

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参照:

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4087715906/ref=acr_offerlistingpage_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

 

どうやら、アメトーーク!という番組が原因らしいのですが、僕にも推測はなんとなくできます。

 

売り込み方がこれを招いたのかな、と。

書店で平積みされているこの本を見た時を思い返すと、どうみてもミステリー本という宣伝がされてましたからね。

要は、分厚いミステリーと思って買った本が、純文学で重いテーマ扱っていた、というすれ違いでしょうか。そりゃあ失望しますよね......

 

例えるとするなら、ポップ音楽のコンサートという触れ込みをされてるコンサートに行ったらクラッシックを聞かされる、みたいな感じですかね。

僕の場合は、「クラッシックもOK!!」だったわけでラッキーだったのですが....

 

それでも、最初から純文学ですよ~って売り込んでたら、こんなに売り上が伸びなかったんじゃないかなーって思うので、そこは微妙ですね。

詳しくは知らないのですが、純文学って廃れかけているそうで......

 

一つ言えるのは、読む人を選ぶということですかね。性描写についても、僕は教団Xを引き立てるためにはあれくらい必要じゃないかな、と思ったのですが、レビューの多くに、性描写が多くて気持ち悪いというのがありましたからね。

まあ、そうなるよなぁ、という虚しさに襲われましたが、個人の感想を否定することは僕にはできないので、これを面白いと思ってくれる人に出会えることを祈るのみ。

 

  •  あとがき

この本は、人間の本質に迫っているんですよね。そこに肉迫し過ぎたきらいはありますね。僕はそこが好きなんですが、大衆はそうは思わないようで。(そりゃエンタメ小説読もうとして手に取った本がこれならなぁ)

 

これはもう僕の持論になるので、嫌ならブラウザバックをしてください。

 

 

 

我々人間は、嫌なことから目を背けていたいんですよ。「ほんとは俺らなんてこんなくだらない存在なんだぜ」とか「ほんとは世界ではもっと残酷なことがあるよ」とか言われると、それを目の届かぬところに追いやっていたいんです。この作中にも似たようなことを言っている箇所があります。

要は、自分の住む社会が、綺麗ですべてが上手く行っている、と思っていたいんですよ。

だからこそ、誰かが、そのむき出しの真実を突き付けると、耐えられないんですね。そして、拒否反応を示してしまう。それこそ、「内面を揺さぶられ」て、「深く考えることを避け、自己を守る」ような行動をとってしまいがちなんですね。

それも、この低評価の嵐につながってるのかな、と思います。

 

「そんな事実はない」とか、「下らない個人の信条」とかで片づけることによって、普遍性を孕んでいるテーマと、その大切さに気付けなかったりするんだろうと思います。

 

本当の最後に。

僕は、医者ではないし、ただの青二才なので誰かを救うことなんてできるわけもないのですが、それでも、僕でも、考え続けることだけはできると思います。

こうした問題に関心を示し、直視して、それについて、自分なりに悩む。悩んで悩んで悩みまくる。どうせ答えなんて出せるわけないんですよ。僕程度の存在に出せるようなら、世界の社会問題はとっくに解決してるわけで(笑)

 

でも、考え続け、悩み続けることに、意味があると僕は信じています。その過程は決して無駄にはならない。

今はひたすら、これに縋っていこう、と思ってます(笑)

「スナチャ」ことスナップチャットはなぜ流行る???

こんにちは。しじまです。

 

早速記事を書いているのですが、テーマは「スナップチャット」

英語では、Snapchatと言いますね。これが今、北米では大流行です。

 

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このロゴ、見たことあると思います。

日本では似たようなアプリ「SNOW」が流行ってますね!

僕は日本の流行には少し疎いので、あまり触れられませんが...

 

気を取り直して。

ここでは、「なぜスナチャが流行るの?」という疑問に、僕なりの答えを出していこうと思います。

 

テーマ:なぜスナチャが流行るの?

 

まずは、面白い統計を、見せたいと思います。

ソースはここです。ジャーン。

www.visioncritical.com

 

データを見る前に、用語の説明から。

Generation Zというのは、1995年以降に生まれた人を指す総称です。僕はZ世代と呼びたいと思います。

 

で、Millennialsというのは、Z世代の一つ前の世代で、1986~1995の10年の間に生まれた世代です。またの名をGeneration Yと言います。僕はY世代と呼びた(ry

 

この記事の中には、Generation Xというのがありますが、同じく1976~1985の10年間に生まれた世代です。もうお分かりかもしれませんが、僕はX世代と(ry

 

で、僕が注目しているのが、「Z世代は、Y世代に比べて、よりスナチャを使い、あまりFacebookを使わない」という傾向があることです。

まあ要するに、この統計から、(主に北米の)若者の間で、スナチャが流行っているという事実を立証しただけです。

 

はい、では考察へ参りましょう。

 

が、最初に。 

スナチャやスノウが流行っている原因、っていうのはもう既に誰かしらが、考察してると思います。

例えば、フィルター機能や、メッセージが一定時間で消えるといった特徴。

 

こうした機能に注目するのもいいですが、それでは二番煎じになってしまいます。

ですので、多分まだ考察されてない事柄について、考察していきたいと思います。(って、そんなの当たり前ですよね)

 

はい、ではいきましょう。お待たせしました。

(ドラムロール)

 

スナチャは、友達(特定多数)のみに

フェイスブックは不特定多数に

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ずばりこれです。

どういうことかと言いますと、

スナップチャットでは、ユーザーがだれに写真やテキスト(まとめてスナップと呼びますね)を送るか指定でき、誰から送られてくるかも管理できます。

 

その点フェイスブックでは、不特定多数の人がユーザーの投稿を見ることができますし、TLに流れてくる投稿も、ユーザーの友達登録された人以外のもあります。

 

つまり、不特定多数に対して、開かれているか否か、が一番の差異であり、それがZ世代の間でスナチャが流行っている原因だと僕は考えます。

 

急に真面目な話になります。

この原因は、一言で言ってしまえばインターネットです。(勝手な個人の見解ですが)

インターネットによって、世界で何が変わったかと言うと、「見えていなくても、誰かと会話、やり取り、コミュニケーションができる」ようになりましたね?

 

極端な話、世界が広くなった、とも言い換えることができます。

 

さあ話が飛躍します。

 

世界が広くなると、競争が激化します。この競争とは、ありとあらゆる競争です。

ですが一旦、ここでは、「個性確立の競争」を指したいと思います。

では、個性確立の競争とは、なんでしょうか?

 

 

誰しも、「自分は特別でありたい、周りといい意味で違っていたい」と思いますよね?

なぜなら、「他人と同じ自分」に人としての唯一性は存在しなく、極端な話、あなたが他人と代替可能な存在であるのなら、あなたの存在価値はどこにあるの?という話です。

 

で、そんなささやかな存在価値となってくれるのが、個性です。

この個性を確立することが、個性確立の競争です。

 

例えば、「勉強はダメだし、運動神経もよくないけど、絵を描くのが得意だ」というのは立派な個性です。

 

昔は、この個性を確立することが、比較的容易でした。なぜなら、世界が狭かったから。

つまり、その個性の比較対象が、自分が住んでいる地域の住人、だったわけです。それなら、個性を見つけ出すことは、比較的簡単でした。

 

ですが、インターネットにより、個性の確立が一気に難しくなりました。考えてみれば当たり前です。世界が広がり、競争相手が増えたから。

 

先程の、絵の話に戻りましょう。

従来ならば、「絵が上手い」というのは、自分を支えうる個性になっていました。

それが今はどうでしょう、フェイスブックやインスタグラム、ツイッターサーチエンジンなどで少し調べれば、「絵が上手い」なんて人はいくらでも出てきます。

これも当たり前なんです。母体が増えれば、それだけ競争は激しくなりますから。

 

その結果、「自分よりも上手い人がこんなにいる....」という不安が生まれます。

ひいては、それが自己否定につながってしまいかねません。

 

なぜスナチャが流行るの?」

つまり、自分の個性を疑うようになってしまうのです。

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これは、若者には深刻な問題です。

 

話がかなり脱線してしまいました。

スナチャとフェイスブックに戻ります。

 

僕が何が言いたいか、というと、フェイスブックのようなSNSは、このような風潮を加速させている、ということです。(もちろん、フェイスブックにもいい面はあります)

不特定多数とつながる、ということは、競争相手が格段に増える、ということでもあります。

 

ですが、スナチャでは、それが起こりにくいです。なぜなら、繋がりたい相手を指定できるから。

思うに、僕たちZ世代は、親しい人たちだけでのネットワークを構築したい、と考えるようになったのではないでしょうか。

 

こういう話を聞いたことがあると思います。

「いいね!の数を比べてしまう自分が嫌だ」

「フォロワー数をついつい確認してしまう」

 

僕も、最初はそうでした。やはり、人間は社会性のある生き物ですから、他人と比べてしまうんですよ。

 

こうした不安から生まれたのが、スナチャの流行ではないでしょうか。

他人と比べることもなく、親しい人と、ネットワークを築く。

 

スナチャが流行っていることには、こういう一面もあるんじゃないか、と僕は思います。

 

※感想、意見等お待ちしております。

ではでは。

初投稿

こんにちは。投稿者のしじまです。

 

 このブログでは、僕が普段ふと考えるようなことを、書いていきます。

「そういえば、なぜ○○は○○なのだろう?」 みたいな疑問を見つけ出し、それに自分なりの答えを出してきたいと思います。

 

と、なると大抵、独りよがりな考えを、つらつら述べることになってしまうかもしれません。まあそこは多めに見てください(笑)

 

まずは自己紹介。

学生です。

帰国子女です(北米及び東南アジアの某国に住んでました)。そのため、日本語が少し不自由です。

 

好きなものは..........本ですかね。

読書が大好きです。特に小説が。

 

小学生のころから、時代小説が好きですね。藤沢周平氏の本とか、好物(?)です。

あとは、推理小説東野圭吾氏)とかですかね。

著者で言えば、中村文則氏、伊坂幸太郎氏、恩田陸氏の本が好みかな。

 

そう。本で思い出したのですが、このブログには、本の感想も書いてみたいと思います。読者の皆さんと意見交換をできたらなぁ、と願っています。

 

ではでは。